今日も輝けるひとつの海をのぞいてくださり
ありがとうございます。
2025年8月1日から3日まで
ロサンゼルスのHollywood Bowlにて
3夜連続で行われたミュージカル
Jesus Christ Superstar
アダムの出演が決まったという第一報が流れたのは、3か月前の5月6日でした。
ブロードウェイで昨年9月中旬から今年の3月までの約半年間、「Cabaret」のMC役に抜擢され素晴らしいパフォーマンスで成功を収めた矢先の嬉しいニュースでした。
彼の「Cabaret」での功績が認められたからこそのオファーだったと思います。
アダムがこの作品を知るきっかけになったのは、彼の父親の持っていたオリジナルレコードでした。
His dream role to play and it's happening😭😭❤️@adamlambert #Judas #JesusChristSuperstar pic.twitter.com/QE9kBnP8qK
— GELLY (@4Gelly) May 5, 2025
10歳の幼少の頃から舞台俳優として
数々のミュージカル作品に出演してきた彼にとって
「Jesus Christ Superstar」のユダ役は
ひとつの大きな夢だったのです。
アダムファンである私にとって喜ばしいニュースであることは間違いありませんでしたが、タイムラインが歓喜で沸きあがる中、これは観に行くべきだろうかと会場やチケットを調べていたが、最終的に行かない選択をしました。
来年以降にあるだろうと予測しているQALのツアーが最優先であったため、今回は見送ることにしたのです。
怒涛の3日間のステージを追い数々の衝撃がありましたが、アダムの素晴らしいパフォーマンスを目の当たりにしたことで“やはり行けばよかった”という後悔は、不思議とありませんでした。
むしろ行かなくて正解だったと思ったのです。
当初このミュージカルに関しての記事は書くつもりはありませんでしたが、受けた衝撃が余りにも大きく、アダムファンである私がなぜ行かなくて正解だったと思ったのか…残しておかなくてはと考え執筆に取り掛かりました。
そもそも正直に暴露いたしますと、この大ニュースが発表された時もちろんグランバーツとしては嬉しかったのですが、ミュージカルの知識が乏しい私には「Jesus Christ Superstar」(以下JCS)という作品名が初耳だったのです。
半年間行くチャンスがあったブロードウェイのcabaretにも行っておらず、アダムのパフォーマンスはコンサート優先であり、彼の舞台に及ぶまで時間と資金を注ぎ込む余裕がなかったのは事実です。
チケットやフライト、会場、ホテルなどのチェックは一通りしてみたものの、はてどうするか、と迷っていた私に、2023年のQAL渡米の時にお世話になった親しいフォロワーさんから連絡がありました。
実は彼女はJCSの長年の大ファンで、アダムが出るなら是非観たいと渡米を決めたとのこと。
チケットサイトのアカウント登録にエラーが出るんですよ、とメッセージが入り、“ミルキーさんは行かれないのですか?”と問われ、自分は今回は見送るつもりだと答えました。
彼女(以下Aさん)は無事2日目と最終日のチケットが取れ、慌ただしいスケジュールの中出発されました。
日本で待機していた私は仕事から帰宅後SNSに付きっきりになり、徹夜で情報を追いました。
この時点ではまだ作品に関しての知識は乏しいままで、アダムのパフォーマンスが凄いのはもちろんわかったのですが、あらすじもわからない自分にとってはそれがどう凄いのか…理解できていなかったのでした。
細切れの動画を繋げてひたすら追いかけるだけでしたが、ただ感じたのはCabaretとは全く異質のミュージカルだということ。
これはロックミュージカル、ロックオペラと言われているもので、最初に曲を録音→コンセプトアルバムとしてリリースしての経過を経てハリウッドボウルでの初演→ブロードウェイ→映画と進んだということを現地に飛んだAさんから聞き、なるほどと納得。
ミュージカルと言っても幅が広いんだなあとこのとき初めて知り、Cabaretに比べて音楽性が強いロックミュージカルだからこそアダムらしさ、彼の本来持ってる歌で表現する力がより出ていると感じ、“アダムが出るなら観てみたい”と行く決心をされたQUEENファンでありJCSファンのAさんの気持ちが、ようやく腑に落ちた2日目の公演でした。
最終日の公演を迎える直前、私はAさんにメッセージを送りました。
“私が行けなかった分も最後まで見届けてあげてください。”
正直、追っていたのは彼のパフォーマンスがほとんどで、ジーザス役のシンシア・エルヴォや他のキャストのシーンは、流しながらもストーリーや歌詞をチェックするでもなく、ユダが密告を後悔して自害するシーンに於いては“赤いマイクコードを巻きつけるシーンが昨日とは別人だ”くらいの低レベルなコメントしかできず、今思うと恥ずかしい限りの無知な私がいました。
最終日が終わり、各メディア、会場に訪れたJCSのOGからの絶賛の嵐を目の当たりにして、さすがの私にもとんでもないことが起こっている、この作品のユダ役の夢を叶えたアダムにとってこの瞬間は快挙、とても尊いことなんだと彼の長年の夢を叶えた「ジーザス・クライスト・スーパースター」のことを私はもっと知るべきだと、初めて後悔の念に駆られました。
行かなくてよかった、いや行くべきではなかった…これは正直の気持ちです。
もし行っていたらあらすじもわからず英語も理解できず、ただポカーンとしながらアダムの歌に酔いしれるだけの3日間で終わっていただろうと思います。
現地に飛んだ友とともに情報を交換しながら、日本でひたすら映像を追い、アダム演じるユダ役の背景とこの作品に込められた製作者、出演者の想いが少しずつだが見えてきて、“行かなくてよかった”自分と次のアダムのステップのために後悔しないよう“今自分ができること”…
アダムが夢を叶えたJesus Christ Superstar
追ってみようと思います。
『Jesus Christ Superstar』
作曲 アンドリュー・ロイド・ウェバー
作詞 ティム・ライス
原作 ジーザス・クライスト・スーパースター、聖書、福音書
初演 1971年10月12日 マーク・へリンジャ―・シアター
《1970年 ジーザス・クライスト・スーパースター(アルバム)》
最初のきっかけであるシングル『スーパースター』がヒットしたことにより、デッカレコードが1970年にコンセプトアルバム『ジーザス・クライスト・スーパースター』をリリース。(ゴールドディスク獲得)
当初舞台化は困難とされていたが、アルバムのヒットにより1971年10月12日ブロードウェイのマーク・へリンジャ―・シアター(現タイムズ・スクウェア・チャーチ)で初上演。1973年6月30日までに全711回のロングランを成功させた。
1972年から1980年の8年間ロンドンで上演され、1989年『キャッツ』(同アンドリュー・ロイド・ウェバー)に破られるまでロングランの記録を保持していた。
1973年舞台版が映画化され、監督はノーマン・ジェイソン、ジーザス役にテッド・二―リー、ユダ役にカール・アンダーソン(2004年2月 58歳没)、イヴォンヌ・エリマンがマリア役を演じている。
聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル(※)、またはロックオペラと呼ばれるもの。(1973年映画のジーザス役のテッド・二―リーはこれはミュージカルではなく“ロックオペラ”だと言っている。)
※ロックミュージカルとは台詞のない音楽と楽曲のみで進行するもので、『ヘアー』『グリース』『レント』などが代表作品。→ロックミュージカル-Wikipedia
イエス・キリストが十字架にかけられる受難に関する記述を元に、ジーザスを信仰する弟子たちの心の変化と、その教えに懐疑的な目を向ける使徒のひとりユダの善悪の狭間に揺れ動く心の葛藤が、物語の軸になっている。
歌詞には現代的な意識、感覚、スラングが取り込まれ、政治的な描写には現代社会への皮肉が込められている。
聖書を冒涜していると当初より宗教団体から抗議活動を受け、賛否両論を繰り返してきた背景があるが、製作者、出演者によって様々な描かれ方をされてきており、作品的に高い芸術性を感じる。
時代を映し表現の自由が貫かれてきたことが結果、時代の評価を得ることとなったことが長い間ヒットし続け、今もなおファンが増え愛されている所以ではないだろうか。
私たち日本人にとって決して身近なものではない聖書。
この作品について調べているとまず素朴な疑問、ジーザス・クライストとイエス・キリストの表記に分かれていることが目についた。ジーザス・クライストとはイエス・キリストの英語表記のことである。
歌詞中でも使われていたので、ここでは以下ジーザスの表記を使用していきます。
アダムファンとして今回の作品に相対した人たちの中には、私のようにあらすじがよくわからないまま三日間が終わってしまった、という方もお見えになるのではないでしょうか。
ここでおおまかなストーリーをご紹介しておきます。
時は今から約2000年前。
神の子として崇められていたジーザス・クライスト。ひとりの人間として神と民衆の狭間で苦悩する姿に懐疑的な目を向けていたのは、12人の使徒のひとりイスカリオテのユダ(イスカリオテというのは地名)、このふたりを中心に物語は進行していく。
ローマ帝国領のパレスチナでは、三者の支配による圧制に民衆が苦しめられていた。
ユダヤ国王ヘロデが統治していたが、実権はローマ帝国総督ピラトが握っており、更に聖都エルサレムではユダヤ教の大司教カヤバとその義父アンナスが権力をかざしていた。
そこへナザレ村出身の大工の息子ジーザスが現れ、新しい教えを説いた。
疲弊していた民は救いを求め彼こそが救世主神の子と讃え、多くの奇跡を起こすと信じられるようになり、その信仰心は勢いを増すばかりだった。
教団指導者として計画性に欠け、名声ばかりが一人歩きしていたジーザス。
彼に対する期待が大きくなることが、やがて彼の本当の無力な姿を知ったときの失望となり、結果ユダヤ人社会を危険にさらすことになりかねない。
そうなる前にジーザスに気づかせ、最悪の結果になることを阻止することが自身の使命ではないかと、ひとり翻弄していたユダ。
愛情と憎しみの狭間で苦悩する彼の選んだ末路は、ジーザスを捕らえようとするファリサイ派の手助けをする“裏切り”だった。
心から望んでいたことではないことに苦しみ自身を責め、報酬のために受け取ってしまった銀貨を手放し自害するユダ。
と同時に自分の信者である使徒のひとりの裏切りによりジーザスは捕らえられ、磔刑によってその命を絶たれる。
愛憎に満ちた両者の関係に、ジーザスの献身的な世話をするマグダラのマリアの、彼を愛するが故の苦悩が絡められ、微妙な三角関係の描写も見逃せない作品となっている。
マリア役のフィリッパ・スーの透明感ある茶目っ気な歌声は心地よく、時折ユダに向ける鋭い視線との落差がマリアの二面性をあからさまにしていて、物語に人間味をプラスする存在感がすばらしいと感じました。
◆演出・振付 セルジオ・トルヒーヨ
◆指揮・音楽監督 スティーブン・オレムス
◆登場人物/キャスト
・ジーザス・クライスト(シンシア・エリヴォ)-12人の使徒のリーダー。神の子、ユダヤ王と呼ばれる。
・イスカリオテのユダ(アダム・ランバート)-ジーザスの使徒のひとり。ジーザスの教えに懐疑的な気持ちを持つようになり、心配のあまり愛情は「裏切り」となり、その狭間で苦しむ。
・マグダラのマリア(フィリッパ・スー)-ジーザスの信者の女性。彼の世話をするうちにやがて愛していることに気づく。
・ピラト(ラウル・エスパルサ)-ユダヤ属州総督。
・カイアファ(ザカリー・ジェイムズ)-大祭司。ジーザスを国の脅威とみなす。
・アンナス(ブライアン・ジャスティン・クラム)-カイアファ派側近の司祭。
・ペトロ(マイロ・マンハイム)-ジーザスの12人の使徒のひとり。ジーザスが捕まえられる夜、保身のために知り合いではないと三度の嘘を言う。
・シモン(タイロン・ハントリー)-ジーザスの12人の使徒のひとり。信者たちをローマ帝国戦わせるようジーザスに促す。
・ヘロデ王(ジョシュ・ガッド/初日代役 ジョン・スタモス)-ガリラヤの王。ピラトの元に連れてこられたジーザスが、裁判のために連れてこられる。
ここからは動画を交えストーリーを追っていきたいと思いますが、動画については削除対象になっているため、随時公式PVへの差し替えで対応しています。ご了承ください。
【第1幕】
時は西暦30年。三者が支配するローマ帝国の圧政下、苦しめられる民衆の救世主として神の子ジーザス・クライストへの信仰心は激化し、帝国から脅威と見なされていた。
ジーザスの右腕だった使徒のひとりユダは、エスカレートする信仰心に「神の言葉」が真実ではないと気づいた時の、彼らの反動を恐れていた。
自分たちの立場を理解しよう、生き残っていくためのチャンスを自ら潰しているんだと、勇気を持って言い聞かせるユダ。
“彼らの心にある天国が幻になる前に気づいてくれ”と歌い上げる、先行シングルとして8月1日にリリースされたオープニング曲Heaven on Their Minds。
アダムの登場シーン、彼が夢を叶えた瞬間だった。
花道を歩く姿に、まだ歌わずとも彼が舞台俳優だという存在感が昨日今日のものではないことは、誰もが認めるだろう。
ジーザスよ、聞いてくれと説得する言葉は、激しくときにやさしく響いてくる。
過去作品のキャストのこの曲を聴いてみて気づいたのは、思った以上に難曲だということ。
曲の緩急が激しく、そこに感情移入する余裕を見つけるのはなかなか難しいように思える。
しかしアダムは、いとも簡単そうにやってのける。
いつものことですが、技術にセンスと才能で磨きがかかり、さらに端正な顔立ちに軸のぶれない立ち姿。
幼少の頃からミュージカルの基礎、正しいヴォイストレーニングの訓練を受け、こつこつと積み上げてきたものが、夢叶う舞台でついに花開いた。
◆Overtrue – オーケストラ
◆Heaven on Their Minds ユダ
ユダ以外の使徒たちはジーザスとともにエルサレムへ行くことを望んでいた。
“いったいいつ行くんだい?”と煽ってくる彼らをなだめるジーザスの傍らに、世話焼きのマリアが登場。
ユダはジーザスほどの男がなぜこのような女に時間を注ぎ込むのか理解に苦しむ、とふたりの関係を非難する。
それに対してマリアをかばい、さらに激しくユダを罵倒するジーザス。
序盤にして、ジーザスを慕い心配するユダとマリアの三角関係が浮き彫りになるシーン。
◆What’s The Buzz ジーザス、マリア、使徒
◆Strange thing, Mystifying ジーザス、ユダ
三人のバトルはまだ続いていた。
マリアはジーザスに聖油を塗りながら“何も思い悩むことはない、すべてはうまく行っている。何もかも忘れてゆっくりお眠りなさい”と歌い慰める。
そのころ香油とは非常に高価なもので、その価値はおよそ三百デナリ。
当時の労働者の1日分の給料は1デナリと言われていた。
ここで再び物言いをつけるユダが登場。
脇で腕組みをして待機するアダムに思わず“負けるながんばれ~!”と声援を送りたくなってしまうグランバーツ。。。
高価な香油を惜しみなく使うふたりに、それだけの香油を買うお金があるなら多くの貧しい人たちを救えるはずだと非難するが、そんなユダをもなだめようとするマリアの強気な女性像が、ここでもはっきりと浮かび上がります。
“私たちにそんな資力があると思っているのか。貧しさに苦しむ彼らのすべて救えると思うのか。私がいるうちに頭を冷やせ!“みたいなことをユダに向かってまくし立てています。
今回シンシアとアダムの身長差が話題に上っていましたが、確かに高低差も顔の大きさも巨人と小人くらいに見えてしまうのに、演技と迫力はふたり同等、お互い譲らない引かない駆け引きが際立っていました。
公演後も、ふたりを取り巻く様々な賛否両論が渦巻いてますが、このキャスティングには1ミリの狂いもなかったと私は思っています。
◆Everything’s Alright マリア、ユダ、ジーザス
一方、大祭司のカイファはファリサイ派と司祭たちを招集する。
ユダと同様、彼らはジーザスの信者たちがローマ帝国から脅威とされ、その結果として多くのユダヤ人たちが困難に陥る可能性を危惧していた。
カイファは最悪の結果を招かないためには、ジーザスを殺害すべきと結論づける。
◆This Jesus Must Die カイアファ、アンナス、大司祭
ジーザスと信者たちがエルサレムへの到着を喜んでいると、カイファがジーザスに群衆の解散を要求する。
しかしジーザスは、歓喜に沸く群衆の叫びを阻止することはできないと歌い、信者たちは私たちのために戦ってくれるんだろう?と彼らの勢いは止まらない。
Hosanna(ホザナ)とは、ヘブライ語で“どうか、救ってください”という意味になるらしい。
イエス・キリストがエルサレムに到着した際、人々が「ホザナ」と叫んで歓迎したことから、キリスト教においては「救い主をたたえる言葉」として使われるようになったようです。
◆Hosanna シモン、ジーザス、群衆
使徒のひとりである熱心党のシモンは、ジーザスへの群衆の信仰心を利用してローマ帝国への反乱をけしかけようとする。
ジーザスはこれに反発し、信者たちの中には真の力を理解しているものはひとりもいないと語る。
◆Simon Zealotes シモン 群衆
◆Poor Jerusalem ジーザス
ユダヤ属州総督ピラトは、ひとりのガリラヤ人が群衆の手によって暴力で亡くなり、非難される夢を見る。
◆Pilate’s Dream ピラト
ジーザスは聖堂が市場として使用されていることを知り、怒って皆を追い出した。
この頃流行っていたハンセン病の人々がジーザスに治癒を願い乞う。
◆The Temple ジーザス、ハンセン病患者
◆Everything’s Alright(Reprise) マリア、ジーサズ
マリアは疲れ果てたジーザスを眠りにつかせ、彼を愛していることに気づかされる。
◆I D’ont Know How To Love Him マリア
ユダとファリサイ派との取り引きがついに行われてしまう、第一幕のクライマックス。
“自分がやらなければ誰がやるんだ、望んでここに来たわけではない。ジーザスもそれはわかってくれている。だから地獄に堕ちるなんて言わないでくれ。”
どう言い聞かせれば自分の心は軽くなるのか…罪の意識から逃れたい一心のユダの心の底からの叫び。
ジーザスを捕まえる手助けをする報酬としてカイアファは銀貨30枚(※当時)の報酬を提示する。
報酬なんていらないと拒否していたユダでしたが、ついに手にしてしまう。
もらうことは本望ではない。
もらってももらわなくても、ユダの取るべき行動はひとつしかないのだ。
しかしもらうことで少しでも罪の意識が軽くなるかもしれないと自分を納得させることが、この時のユダにできる精いっぱいの慰めだったのかもしれない。
ここから第二幕ユダの密告へ、ジーザスの末路へと物語は静かに進んでいく。
※ちなみにユダが受けっとった報酬の銀貨30枚は、2025年版では紙幣に更新されており、当時(西暦30年)90ドル相当が3000ドルの価値になったようです。
参考資料―Xより引用
◆Damned for All Time ユダ
◆Blood Money カイアファ、アンナス
【第2幕】
ジーザスの磔刑前夜に使徒たちとともに行われた最後の晩餐。
皆が飲んでいるワインは自分の血、パンは体だ、私は皆の記憶に留まることはないのだろうと語る。
自分のことを知らないと嘘を言い、この中の誰かが自分を裏切ると予見する。
ユダは裏切り者は自分だと認め、誰かがやらなくてはならなかった、ここまで大事になるまでなぜ黙って見ていたんだと思いの丈を吐露するが、時すでに遅しという絶望の淵に立たされながら、もっとうまくできていたかもしれないという言葉を残し、出ていく。
ふたりはお互いの胸の内をさらけ出すが、ストレートだったり時には裏腹だったりする。
出ていけと言うしかないジーザス、そんな最後のやり取りが切ない。
◆The Last Supper ジーザス、ユダ、使徒
残された使徒たちは眠りにつき、ジーザスは祈りのためにゲッセマネの庭園に向かう。
自分の死を覚悟しながらも、これまでの自分の行いが間違っていなかったことを神に問う姿は、やはりジーザスも神の子ではなく、ただの人間だったということだろう。
◆Gethsemane(I Only Want to Say) ジーザス
ローマ兵士たちがゲッセマネに到着し、ユダが居場所を知らせるためにジーザスの頬にキスをして、ついに捉えられる。(Xポスト拝借)
このあとジーザスはサンヘドリンの裁判にかけられ、カイファはジーザスに“神の子なのか”と問い、ジーザスは“その通りだ”と答える。
アンナスはこれが十分な証拠になると言い、カイファはジーザスをピラトの元に送る。
◆The Arrest ユダ、ジーザス、ペトロ、使徒、カイファ、アンナス
DAY2/ Gethsemane . The kiss
— GELLY (@4Gelly) August 3, 2025
Betrayal @adamlambert #JesusChristSuperstar https://t.co/pyIpzeiXbC pic.twitter.com/tyM0b8YcLb
ペトロはジーザスを知っているかと聞かれ、3人に対して“彼を知らない”と否定する。
マリアはジーザスが、このペトロの嘘を最後の晩餐の席で予言していたことをここで知る。
◆Peter’s Denial メイド、ペトロ、兵士、マリア
ユダヤ州総督官ピラトはジーザスに自分はユダヤ王なのかと尋ね、ジーザスは“あなた方がそうだと言っているのだ”と答え、ピラトをイライラさせる。
ジーザスがガリラヤから来たことから、ピラトは管轄外としてヘロデ王の元に送る。
派手なヘロデ王はジーザスに奇跡を起こし、彼が神の子であることを証明させようとする。
しかしジーザスはこれを無視し、怒ったヘロデ王はジーザスをピラトの元に送り戻す。
ヘロデ王のオリジナルキャストのジョシュ・ガッドがコロナ陽性のため急遽降板、初日のみジョン・スタモスが代役として起用、二日目からジョシュ・ガッドが復帰している。
映画版を観ても思ったのですが、ここは笑いを取るところなんでしょうかね。
この踊りでどうやってジーザスに奇跡を起こすのかわかりませんが😅
たぶんここは作品が変わるたびに注目されるシーンなんだろうなと思います。
Aug. 1
◆Pilate and Christ ピラト、ジーザス、アンナス、アンサンブル
◆King Herod’s Song(John Stamos)
二日目から復帰したJosh Gad、8月3日の映像
マリア、ペトロ、使徒たちはジーザスの信者になった時のことを思い出し、平穏が戻ることを願う。
Aug. 2(partial)
◆Could We Start Again, Please? マリア、ペトロ、アンサンブル
ユダはジーザスが辛辣な扱いを受けていることを嘆き、自身が裏切り者として語りつがれることを恐れ、ファリサイ派の人々に後悔を口にする。
カイファとアナンスは正しいことをしたのだと彼をなだめた。
ユダの憎むべきものは、このときの敵は神だったのか。
行き場のない気持ちを抱え、ユダは受け取った報酬を手放しさまよい、自ら命を絶つ。
後半(1:30~)
マリアの歌うI don’t know how to love him
のリプライズになっています。
I don’t know how to love him以外の歌詞は変えられている。
マリアのジーザスに対しての恋心と同じように、ユダが自分の本当の気持ちに気づいてしまうシーン。
なぜこんなに心を動かされるのか、という言葉とともに
“Does he love, does he love me too?”
最後まで自身を攻め続け、彼を愛していたことに気づき、自ら命を絶つ。
この“love”がどういうloveなのか、使徒としてなのか、男性としてなのか…そんなことを超越した、命を絶つことでしか報われない愛だったとしたら、この作品は壮絶なラブストーリーとも言えますよね。
◆Judas’ Death ユダ、カイファ、アナンス
ユダの自害のシーン。(Xポストより拝借)
マイクコードを使った演出は同じだが、手元で巻いて輪を作っていた二日目までとは違い、最終日にはコードを自らの首に巻きつけたアダム。
なぜひとりそこまで自分を追い込む必要があったのか、どこかで引き返すことはできなかったのかと過去に戻ってユダを説得したい衝動にかられる。
Judas Death alisonmartino IG story
— The Lambrits ❤️Here for Adam Lambert (@LambritsUK) August 4, 2025
(😭 everytime Adam ) pic.twitter.com/cbVmfvXpqc
ジーザスの裁判でピラトはジーザスを尋問しようとするが、ジーザスの磔刑を要求する殺気だった群衆により中断する。
ピラトはジーザスは無罪であり死に値しないが、群衆を満足させるためジーザスをむち打ちにかける。
ジーザスに自己弁護のチャンスを与えるが、彼は無視して“すべては神の導きである”と答える。
群衆はジーザスの死を要求し続け、ついにピラトはジーザスの磔刑に同意する。
こちらの動画は削除されているが刑が確定したあと、ジーザスの頭に被せられたのは「いばらの冠」のようです。
いばらの冠は、イエス・キリストの受けた恥を象徴し、のちにキリスト教を越えて被抑圧者の苦しみと闘いの象徴となった。
無実の罪と恥に無言を貫くことで闘ったイエスの姿が、重ねられているようだ。
「荊冠」として、宗教や思想を越えて、貧困や差別と闘う者の連帯の象徴となっているようです。
◆Trial Before Pilate
いよいよジーザスの磔刑が決行されるクライマックス。
ここで自害したユダが生き返り登場するのは、完全なるオリジナルのシーンである。
十字架を担ぎ花道(ゴルゴダの丘)を上るシンシアを、リアルに心配しながらサポートするアダムの優しさが見え隠れしていました。
なぜ自分の手に負えないようなことをしてしまったんだ、計画的にもっとうまくできたんじゃないのか?最後の晩餐?でユダが口にした同じ後悔の言葉が並んでいます。
ジーザスの最期、十字架の上でシンシアがのこした言葉を記しておきます。
(不確かな箇所あり、ご了承ください)
God forgive them – they don’t know what they’re doing
Who is my mother?
Where is my mother?
My God, why have you forgotten me?
I’m thirsty, I’m thirsty, I’m thirsty
God I’m thirsty, I’m thirsty
It is finished
Into your hands, Father
I command my spirit
最後の言葉、I command my spiritには、自分の魂に従った私は間違っていなかったですよね、という想いが込められているように思えました。
ジーザスはやはり神に選ばれし者だったのだろう…そんな気がします。
◆Trial Before Pilate (ending) ジーザス、ピラト、カイファ
◆Superstar ユダ、ソウル・シスターズ
エンディングとカーテンコール
スタンディングオベーションが沸き起こる初日のHollywood Bowl
何度も見ていた映像なのに、突然溢れる涙が止まらなかった。
背後に映し出されたオーケストラに、この舞台を支えてくれた多くの見えない力を感じた。
舞台ってすばらしい。
ひとつのものに向かって、ぶつかり合い、助け合い、作品として形を成して観る人の心に感動を届ける。
それはその人の価値観や人生を変えてしまうほどのエネルギーを生み出すこともある。
サプライズでアンドリュー・ロイド・ウェバーも姿を見せ、作品史上初の女性イエスを讃えた。
アダムと抱擁する姿も確認できる。
ステージはアダムのいちばん輝ける場所。
キラキラの衣装がいつまでも似合うアダムでいてほしい。
いつまでもグランバーツの誇りであってほしいのだ。
Aug. 1
◆Final Scene & Cartain Call
会場に訪れていたJCSのOG、1973年の映画版に出演していたジーザス役のテッド・二―リーとマリア役のイヴォンヌ・エリマン。
ふたりと対面したアダムに賞賛の言葉が贈られた。
イヴォンヌ・エリマンのインスタグラム投稿↓

“私たちが既に聴いてきたものの、ただの複写ではなく、独自のスタイルと解釈を注ぎ込むことで生まれる変化、ニュアンスが素晴らしかったです。刺激的で斬新でありながら、ティムとアンドリューが何年も前に思い描いていたものを心に留めておくことができました。
シンシアとアダム、あなたたちの奔放な歌声は、情熱と緻密さで互いに飛び交っていました。見ているだけで素晴らしかったです。”
テッド・二―リーのXポスト↓

“アダムに会えて最高だった。なんて声なんだ!きっとカールも笑っている…”
映画で共演したユダ役のカール・アンダーソンは、2004年に白血病のため58歳で亡くなっている。
テッドにとって永遠の友であるカールもきっとここに来て、アダムの演じるユダを観ていてくれたと思うと、感無量です😭
そして今回のJCS限定公演のキャスティングについて、ある論争が沸きおこっていた。
イエス・キリスト役にシンシア・エリヴォが抜擢されたことに対し、イエスを冒涜しているという物言いだ。
これに対してアダムが言及している。
Film Goes with Net 2025.8.3 杉本穂高 アダム・ランバート、…
“女性であり黒人である『イエス』が率いる作品を観客に提示するという挑戦に興奮している。観客には少し心を開いてほしい。もともとロックンロールを用いた『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、観る者を挑発し、問いかけることを意図した作品だ。それこそがこの作品の要点なのだ。そして、イエスの教えはジェンダーを超えるべきではないだろうか?”
このアダムの言葉に100%同意の他に述べることはない。
シンシア・エリヴォがひとりの表現者としてこの歴史あるすばらしい作品に於いて、新たな時代への提言、それはアダムも口にしている“ジェンダーを超える”べき挑戦なのだ。
この発言は公演前のコメントである。
イエス役への抜擢が発表された2月以降、エリヴォ自身もビルボード誌のインタビューで「なぜダメなの? 全ての人を満足させることはできないわ」とコメントしている。
アダム自身もそんな理不尽な思いは、幾度となく経験してきた。
マイノリティであるがために悔しい思いもしてきた彼にとって、今回のJCSのユダ役を手にしたことは夢を叶えただけでなく、シンシア・エリヴォというすばらしいパフォーマーと舞台をともにできるという、共演を通していっしょに新しい付加価値を見出せるかもしれないチャンスをもらったことでもある。
さて今回のミュージカル公演のアダムを追っていて、腑に落ちたことがいくつかあるので最後にその話をしておきたいと思います。
もうしばらくおつき合いください。
私はこれまでアダム・ランバートという人物をシンガーという枠組みの中で追ってきた。
QALのアダムに特化したライブレポートの執筆を続けてき中でいつも感じ、何度も口にしてきたことが今回また頭をよぎった。
彼らのステージはツアーごとのテーマの変化はあるものの、ほぼ同じセットリストが並べられ、秒単位のタイムテーブルの中“変わらない”ことへの拘りという一つの信念を貫いてきた。
そこには変わらないことへの美学、クイーンというバンドが築いてきた独自の音楽理論、哲学が貫かれていた。
13年もの間クイーンというバンドとツアーを共にし、二人のレジェンドの背中を見てきたアダムにもその理論は浸透していたし、だからこそ13年間このユニットは存続してきたのだ。
その美学とは、まさに彼らのステージは、ロックコンサートでありながらミュージカルのように展開していくという芸術性を伴ったものであるということだ。
ファンとは常に変化を求め、違う曲が聴きたい欲望を持っているものだ。
多くのアーティストはそれに応えるようセトリに手を加え、飽きないよう工夫する。
しかしクイーンの場合、敢えて真逆を行く。
同じセットリストを同じ演出によって展開させ、あえて変えること、手を加えることをしない。
それはなぜか?
飽きないからだ。(=むしろいじらないでほしい)
彼らのセットリストには緻密に計算され尽くしたものがあり、オープニングからエンディングまでそれはまるでひとつの物語のように進行していく。
一貫性に徹している反面、ふたつと同じものがない。
そこがクイーンの唯一無二、Bohemian Rhapsodyという型破りな曲を、ロック界の歴史に名を残す名曲に仕立てあげたクイーンの美学なのだ。
演目の繰り返しとは、すなわち同じ出し物が続くミュージカルと同じこと。
繰り返しの中で、楽曲に独自の付加価値が備わってくる。
手を加えずともそれは時代とともに、常に新しい感動を生み出すことができる。
アダムがクイーンにフィットした理由、彼でなければならなかった理由はそこだ。
その付加価値を守りつつ、さらに新しい付加価値を生み出し、誰も成し得なかった誰も通ろうとしなかったフレディの亡きあとの道筋を、ここまで歩いてきた。
私がよく口にしている「同じ曲でもふたつと同じ曲はない」という理論がある。
アダムの歌う曲はステージに立つたびに形を変える。
今回の三日間ハリウッドでの公演も、予想通りの展開を見せた。
アダムのステージ勘が優れているのは元々備わっているもの、天性のものだ。
ひとつのステージに於いて、オープニングからエンディングまでの力配分を自身の体調、会場、オーディエンス、その日の進行具合によって微調整、コントロールしているが、それは考える脳ではなく、感覚と勘だけで判断、動ける脳を持っているからこそ出来ることだ。
そしてひとつの公演だけでなく、それはひとつのツアーに於いても同じことが言える。
ブライアンもロジャーも、サポメンも裏方のクルーたちもそうだが、ツアー初日から千秋楽までをひとつのスパンとして捉え、個人、各部署での高密度な調整が日々行われている。
それぞれのテリトリーでやっていることは異なるが、目指しているもの、最終的な着地点が皆同じなのだ。
それらのエネルギーが集結してできた結晶のひとつひとつが、あの破天荒で斬新なステージをつくり出している。
さらにツアーもまたひとつの物語として序幕(初日)から終幕(千秋楽)へと進行していく。
その調整はセットリストの曲編成、時間、演出のわずかな変化に表れたり、時にはメンバーのいつもと違うポジショニングやアレンジの違い…これに関しては、癖が強くパターン化しているブライアンを観察していると、気づくことが多い。
もちろん私の場合は、アダムから感じ取れるものが多いというのは大前提だが。
ハリウッドの三日間をツアーに例えるなら序盤、中盤、終盤。
初日は手探り状態でありながら、ステージでの自身の立ち位置を慎重に確かめ、観客、会場の形状なども踏まえながらの調整、試み、問題点の洗い出し。
二日目は初日での課題を修正しつつ、パフォーマンスという点に関してはピークを持ってきていた。
そして三日目、私の予想では最終日は少しトーンを落としてくるはずだと見ていた。
彼はピークを最終日に持ってくるということをあまりしない。
ツアーの最終日とは彼にとって着地点だからだ。
力を出し切るというより、トーンを整えきちんとフェードアウトする地に足を着けた、そんな演技になる。
二日目にピークを持ってくることが、ここで生かされる。
アダムはすべての物事に対して緩急のつけ方がとても巧だ。
上げて下げる、ただ上げるだけでなく、下げた時の効果も重視している。
そんなことも感覚だけでやってのけるアダムは、やはり天才というしかない。
QALのツアー千秋楽のアダムは意外や、起伏が少なく静かだ不思議なくらい。
それは何もかも出し切った、やりきったという証拠なのだ。
最終日、そんな予想通りのアダムが見れたかなと思っています。
そんなステージ勘の良さはもちろん生まれ持ったものもありますが、QALのステージをこなしていくうちに身につけてきた、と思っていました。
しかし今回の舞台の彼を追ってみて、アダムはミュージカルで生まれ育った生粋のアクターなのだと、当たり前のことを改めて気づかされたのです。
ミュージカルでやってきた昔のアダムを私は知らない。
ミュージカル出身であることは知っていてもそれは知識だけだった、それは“知っている”だけであって“理解している”ことではなかったのです。
10歳の頃からのミュージカル、舞台での経験とソロシンガーのキャリア、そしてクイーンとの13年間の活動ののちに、夢のブロードウェイでのCabaretのMC役を獲得、そこから派生した夢への階段をのぼり、自身の実力と運で掴みとったJesus Christ Superstarのユダ役だった。
アダムの生きていく場所は定まってきたように思える。
ただのシンガーでは終わらない。
彼はシンガーではなく、エンターテイナーだと私は何度も言ってきた。
アソシエイト・ミュージック・ディレクター及び副指揮官を務めていた
Jared Stein(ジャレッド・スタイン)のインスタグラムより
Jared Steinのインスタグラム

“アダム・ランバートは、ユダの役割を歴史上誰も超えられないほど完全に演じきった。あれほど完璧かつ自然に歌われたことはこれまでになく、今後もないだろう。まさにロックスターの定義そのもの。”
これ以上の賞賛の言葉があるだろうか。
俳優でもなく、歌手でもなく、歌って演技ができる舞台俳優。
アダムの武器は演じることと歌うこと、
このふたつがこれ以上ないというくらいの
力を発揮できるチャンスをもらった。
実力だけではスターになれない。
タイミングを味方にできるのも実力のうち。
ロックスターという定義を破って
アダム・ランバートという独自のカテゴリーを
作れるのではないかと思う彼なら。
ミュージカル界に革命を起こすことができるとすれば
それはアダムではなかろうか。
今のエンターテインメント業界、様々なものが出尽くし、情報技術やAIの発達で不可能なことがないほどに人々は欲望を満たしている。
そこにはスピードが伴い、目まぐるしく変化する世の中に対して果たしてこれでいいのだろうか、人らしく生きるということを忘れてはいないだろうか、と警鐘を鳴らしたのがQALの2023年からスタートした北米ツアーのテーマ“Back To Humans”だった。
それに気づいているわずかな人たちは、進むことより戻ることを始めている。
そして、今回のハリウッドでのJesus Christ Superstarでそれを実践、試みていたのがアダムだった。
アダムがステージで手にマイクを持っていたことは、気づかれていた方も多いのではと思います。
ミュージカルの知識がない私は、それが果たして通常なのか異例のことなのか判断ができなかったのですが、明らかに違和感がありずっと気になっていた。
パフォーマンス重視のアーティストやミュージカルの場合、よく見かけるのはワイヤレスのヘッドセットマイクだ。
JCSに関して過去の舞台を調べてみました。
1972年ブロードウェイ上演時のリハーサルではワイヤードハンドマイクを使っていたが、突如演出のトム・オホーガンがワイヤレスハンドマイクでやると言い出し、なんとか初日には間に合いましたが、かなりのノイズと音質の酷さだったようです。
その後の1970年代前半の各国の舞台ではワイヤードハンドマイク使用の写真が残っているので、ブロードウェイ以外ではまだワイヤレスは確立されていなかったようです。
(この後JCSの公演はなかったが、1980年前後のミュージカルはワイヤレスのネクタイピンマイクを使っていたようです。)
1990年代のADツアーでは、テッド・二―リーはワイヤレスハンドマイクで歌っています。
そして2000年ブロードウェイ、2003年USツアーではワイヤレスヘッドマイクが使用されています。
しかし、2006年8月13日のONE NIGHT ONLY CONCERTでは、主役級のベン・ヴェリーン(ユダ)、イヴォンヌ・エリマン(マリア)らはワイヤレスハンドマイクを使用しています。
こちらはコンサート形式だったということもあるようですが…。
ミュージカル界の動きとしては1980年代にハンドマイクを脱却しているのに、1990年、2006年のJCSではハンドマイクが復活(継続)している不思議な現象が起こっている。
※こちらの記事から貴重な情報をお借りしました。
参考文献―Jesus Christ Superstar★ファンの日記 2006-09-08
ここでおもしろいと思ったのは、ハンドマイクを使い続けている役者に、テッド・二―リー、イヴォンヌ・エリマンの名前が挙がっていることだ。
さらに興味深いのはインタビュー記事でテッドは『JCSではハンドマイクで歌うことにしている』と断言しているようです。
これらの参考文献から推測すると、1980年以降ヘッドセットマイクに移行しているミュージカル界に於いて、この2025年にハンドマイクを使っている光景は、かなり珍しいのではないかという結論にたどり着きました。
ヘッドセットマイクを使用する目的は、やはりパフォーマンス重視。
欠点としては、装着時の違和感、衣装替えの妨げ、マイク部分が常に口元にあるので息づかいなども拾ってしまうことが挙げられる。
一方アダムの場合、人並み外れた声量を調整するためには、ハンドマイク以外の選択肢はない。
仮にアダムがヘッドセットで歌ったとしたら、と想像すると、、、音量が恐ろしいことになります笑
(ユダが自害するシーンなど一部ヘッドレストマイクの使用あり)
シンシアをはじめ他のキャスト陣を見ても実力派揃い、ハンドマイクが適切だろうという判断だったと思います。
二日目には最後の晩餐のシーンで、まさかのシンシアのマイクトラブルが発生するが、シンシアとアダムのやりとりが微笑ましく物語が佳境に入っていく張りつめた空気が一瞬緩み、客席からステージ上からも笑いが沸き起こった。
プラスと転じたハンドマイクならではの思わぬ演出だった。
さらに突っ込ませてもらうと、複数の場面で乱立するスタンドマイクの多さよ。
ファリサイ派の黒服軍団の前にマイクが並ぶと、マイクまでもが立派な小道具となりカッコ良さが増しましなのだ。
目まぐるしく場面が変わる中、キャストが演技の流れの合間を縫って手際よくマイクスタンドのセッティングをしており、そんな一瞬一瞬に皆で作るんだというチームワークが伝わってきた。
エンディングのSuperstarでは十字架に電飾されたスタンドマイクが登場。
バックコーラスのお姉様たちはヘッドレストも使いつつ、華麗に入れ替わりながらコーラスを披露していました。
スタンドマイクのコーラスがクラシカルな雰囲気を醸しだしてくれていたように思います。
スタンドマイクなんてミュージカルのステージでは、普通に考えたら危険で邪魔な存在だ。
しかしアダムに限って言えば、彼はスタンドマイクは“トモダチ”なくらい自由自在に操ることができる。
恐らく他のキャスト陣も問題はないと判断されたのでしょう。
手にマイクを持った状態、スタンドマイクが乱立する中での演技に支障があることは事実ですが、そんなデメリットを全く感じさせないところが、やはりキャスト陣のレベルの高さなのだと思います。
作品に対する拘り、プロとして高みを目指すための試み、ハンドマイク(概ね主役級に限定)でのミュージカルは十分可能だという事が証明されたと思います。
便利で簡単に目的を達成できるもの=文明の利器をあえて使わず原点に戻るということは、また新たな産物を生むことができる、その可能性は無限大。
アダムはそれができる技術と器、センスと経験を持っている。
アダムは今後ロックミュージカルの世界で
やっていくのではないかとそんな気がしています。
JCSのステージでありながら、そこにはQALのアダムが時折顔をのぞかせていた。
顔を上げる角度やマイクの使い方が癖づいているクロージング、腰から真っすぐに曲がるお辞儀のし方、腕や手首、指の描く弧…彼にとってクイーンはもう体の一部なのだ。
芸術性の高いクイーンの舞台で経験してきたことが生かされる時が来た、と感じています。
アダムは年が明けたら来年44歳を迎える。
フレディがその生涯を閉じたのが45歳…そこがひとつの区切りになるのではと以前から思っていました。
そのころ彼は独り立ちをするのでしょう、おそらく。
三人の新しいアルバム、もしかしたらそれはミュージカル作品になるかもしれない。
そんな可能性もゼロではないなと感じています。
アダムはミュージカルの製作にも間違いなく携わっていくはず。
彼の目指す着地点はマイノリティな人たちが生きやすい社会、それは彼の居場所である舞台で実現していってほしい。
フレディの遺志を継ぐことには、そこにも大きな意味がある。
そこにブライアンとロジャーがいてくれるなら、こんなに嬉しいことはありません。
私の願いです。
2016年ワイト島。
ライブ当日遠く離れた祖国で起こった痛ましい出来事に、理不尽な社会に対してどこまでも闘い屈しないと意思表明したアダムへ、どんなことがあっても私たちはいっしょだと誓ったブライアンからのメッセージ。
アダムの独り立ちは決してひとりになることではない。
三人は離れることはない、家族なのだから。
今回はこの目で見ることができなかった
アダムの晴れ姿。
後悔はしていない。
行かなかったからこそ、気づけたことがある。
次のステップが必ずある。
そのときは迷いなく、私は飛ぶ。
最後になりますが、今回ロサンゼルスに向かった友人のAさんに心から感謝の言葉を伝えたい。
現地にいる彼女と言葉を交わしたことで、会場のアダムの鼓動はしっかりと伝わってきた。
Jesus Christ Superstarの入り口になってくれて、ありがとう友よ!
もちろん、たくさんの情報や映像を惜しみなくシェアしてくれた世界中のグランバーツにも、どれだけ感謝しても足らない。
いつも私の人生は感謝の上に成り立っている。
【追記】2025.8.14 9:50
この記事を公開する直前こちらのXポストが投稿されていました。
‼️🙏🙏
— GELLY (@4Gelly) August 13, 2025
Andrew Lloyd Webber Teases Possible Arena Tour For Hollywood Bowl ‘Jesus Christ Superstar’
“With rave reviews across the board, Jesus Christ Superstar, starring Cynthia Erivo, the first female Jesus, and @adamlambert as Judas,” the press release states , this production is… pic.twitter.com/3W9jvYOeHk
“アンドリュー・ロイド・ウェバーがハリウッド・ボウルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』のアリーナツアーの可能性をほのめかす 「全面的に絶賛のレビューを受け、シンシア・エリヴォが初の女性ジーザス役、アダム・ランバートがユダ役として出演する『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、アリーナツアーの要望を呼び起こしています」とプレスリリースは述べています。”
アダムは飛躍します。
思いっきり飛べ!!
アダムのいるところに私はいます。
忙しくなる!!!!
■Jesus Christ Superstar_Hollywood Bowl/Aug.1-3,2025
プレイリスト
■映画版(1973) Jesus Christ Superstar
プレイリスト
参考文献
■ジーザス・クライスト・スーパースターWikipedia
■劇団四季 ジーザス・クライスト・スーパースター公式ホームページ
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