ずっと行けなかった場所─あれから10年

今日も輝けるひとつの海をのぞいてくださりありがとうございます。





10年…


長いですか?


短いですか?





2011年3月11日 午後2時46分18.1秒

東日本大震災発生



私は仙台にいた。


そのわずか半年前に

移住してきたばかりだった。

家財道具をすべて積み込み

そこに根を下ろす覚悟でやってきた。


自分の人生なのに

思い描いた通りにはいかない。


震災後わずか半年足らずで

地元に戻った。



そんな私が

再び東北の地を踏んだのは


2016年5月



そこは甚大な津波の被害を受けた

岩手県陸前高田市。



私をここに呼び寄せたのは

あるテレビ番組の

ある映像だった。


撮影場所である

自動車教習所の寄宿舎の食堂にあった


一枚の貼り紙。



“食堂スタッフ募集”






地元に戻りながらも

東北のことが気になりながら

心のどこかで


“戻りたい”


と漠然とした思いを抱きながら

5年が過ぎていた。




この貼り紙を見た翌日

私は電話を入れた。


遠方の県外から決して若くはない独り身の女性が、いきなり番組の中でスタッフ募集の貼り紙を見た、と電話があればどういう展開になるか…まあ、ご想像通りだ。



こうと決めたらとことん突き進む。

まわりのことも先のことも考えず行動あるのみ。


こういうときの私は本能で動く、自分の勘だけを信じている。

自身の長所なのか短所なのかわからない、

やっかいな性格が本領発揮(?)…


とにかく会ってほしいと陸前高田に乗り込み

社長に直談判。

その後地元に一旦戻った私に宛てて

一通の手紙が届いた。



“自動車教習所の寄宿舎を提供しての住み込み。

3ヶ月やってみて自分には無理だと判断したら潔く帰ること。”




テコでも動かぬとわかったのだろう。

常識で考えれば門前払いで相手にもされないのがオチだ。


(後から聞いた話によるときっと諦めて帰ると踏んでいたらしい。)



有り難い心遣いに今でも心底

感謝している。


私の人生を変えた

一通の手紙だ。





その頃の陸前高田市─


市内…と言っても

そこはかさ上げの盛り土の壁の狭間を

何台ものトラックが行き交い

土埃を上げる…


おおよそ人の住んでいる気配を感じない

異様な風景だった。



“5年もたってこれなのか”


その時の衝撃は

今でも忘れられない。




初めて先陣に乗り込んだ時

“何でもやります”と吠えた私はその公約通り、食堂のまかない、事務職、ベッドメイキング、教習所の清掃…来るもの拒まず、無我夢中で働いた。


車もなかったので移動手段は徒歩のみ。

炎天下を歩き、倒れて病院に担ぎ込まれたこともあったっけ。




そして

約束の試用期間の3ヶ月がたった


2016年7月



運良く職場から近くの仮設住宅に入居することができた。


当時そこに入居されていたのは

津波で自宅を流れた方たちがほとんどだった。


県外から来た素性の知れぬ私を

本当に快く迎え入れてくれた。



棟続きの平屋建て

ひとつ屋根の下で

肩を寄せ合うように暮らしていた。


ふと窓の外を見れば、お皿に盛ったおかずを届けてくれる…

そんな昔の“よき日本の風景”のような日々だった。




2019年1月


仮設住宅に入って3年後


私は隣り町の大船渡市に移った。


仮設もいつまでも住めるわけでなく…

と思っていたところへ

たまたま友人からのご厚意にあずかり

借家を借りることができた。


それから2年お世話になり

その借家を出ることになった。


公営住宅を探し


震災からちょうど10年目

岩手に来て5年目の



2021年2月



再びこの陸前高田へ戻ってきた。





相変わらず土埃の中をトラックが行き交い、建物もほとんどない砂漠のような更地が果てしなく広がっていた。


しかし少しずつ道は整備され、道の駅や発酵をテーマにした商業施設などが建ち始めていた。


その発酵パークを紹介する観光物産協会の動画をたまたま目にした。


ユーモアたっぷりのナビゲーターに引き込まれ、最初は38分か…長いなあと感じつつも、ついつい最後まで見てしまった。







この動画の中で

私は懐かしい方にまたお会いした。



偶然にも


私をこの陸前高田に呼び寄せた

あの運命の番組に出演されていた

陸前高田ドライビング・スクール

(旧陸前高田自動車学校)

の代表取締役社長だった田村滿さんが


この発酵パーク“COMOCY(カモシー)”

の運営会社株式会社“醸”の

代表取締役だったのです。




震災発生時、たまたま高台にあった高田自動車学校は津波被害を免れたため、混乱する役所を見かねて震災当初、救援物資の搬入拠点となることを引き受けた。


そして国連の手により建てられたテントにて、震災からわずか2ヶ月後の5月から「朝市」を開いた。


それまで物資をもらうだけの避難生活だった人々が、自分の意思で買い物ができる喜びを思い出し、販売者の方との弾むような会話が生まれ、再び活気を取り戻した。


このことが人々に勇気を与え、その後仮設店舗ができて行くきっかけとなったのでした。



地域のために事業や産業を起こせば

新たな雇用も生まれると考え

その後田村社長は


「なつかしい未来創造株式会社」を創立された。





復興の先にある

「なつかしい未来」に向けて

千年先の子どもたちのために

今私たちに何ができるだろうか。


陸前高田には

日本の古き良き心が残っている。



子どもたちが自分のふるさととして

誇りを持てるまちに復興していきたい。


(なつかしい未来創造株式会社 創立趣意 より引用)





産業をつくる。

そこに雇用が生まれる。

人が集まりコミュニティが広がる。


家族、友人、地域へと輪が広がり

活気づくまち、ふるさとにしていく。


そして

子どもたちに受け継がなければならない。


震災から残された人々の

それが目指すべき

「なつかしい未来」なのだろう。




先にご紹介した「COMOCY」の動画の最後に、陸前高田で200年以上続く老舗醸造業「八木澤商店」の代表取締役であり、ここを運営する株式会社醸の取締役でもある河野通洋さんがこんな言葉を残されていた。



─中略

震災のことでちゃんとお祈りを捧げることは大事だし、津波を教訓として自然災害について色々学んでいくことはもちろん大事だけど


自分は可哀想な街は嫌なんです!


震災直後は「大変だったね、可哀想だね」という言葉をよく言われたんですけど、でもいい仲間と生きているし、大切な仲間を失って悲しい思いもしたけど、俺たちの街ってそれだけじゃないんだよね。


これまでも素敵な街だったし、これからも素適な街になっていく可能性がいっぱいあるんだから、そういうようなことを、それなら地元のメンバーと一緒にやっていく!ということが凄く大事!





10年もたったのに相変わらずトラックが行き交い

砂漠のような空き地が広がるだけ。


まだ復興半ば…と思っていたが

この砂漠の向こうではしっかりと

復興の足取りが進んでいた。


今はまだ僅かしか目に見えてないのかもしれない。

でも根はしっかりと張られていたのだ。




“自分は可哀想な街は嫌なんです!”



この言葉にはっとした。



私も含め他の人たちも少なからず多からず

そんな目で見ていたことに気づかされた。



陸前高田の人たちは

美しいふるさとを愛し、誇りに思い

少しずつだが前を見て進み始めていた。


失ったものが大きいからこそ、

そこには強い絆が生まれる。





私が2年前までお世話になった

竹駒町の相川仮設住宅。


そこを離れて以来、2年振りに訪れた。



撤去されたと聞いて

見に行くことが出来なかったが

急に足が向いた。


懐かしい道を車で走らせ

たどり着いた。







山並みも桜の木も

あの日のままだった。


私を温かく迎え入れてくれた。

色々あった、、、楽しかった日々。



2018年4月28日 撮影



懐かしい人たちの声が

笑顔が浮かび

涙で滲んだ。


“桜の咲く頃に

また来よう”


そんな言葉を胸に秘め

その場を後にした。




そして─


私はもうひとつの

ずっと行けなかった場所へ


行こうと決めた。



10年のこの節目に見ておこう、

いや見ておかなくては、と。


地元のひとたちの中には

まだ行けない方がたくさんいらっしゃる。


私の足も遠のいていた。



“高田松原復興記念公園”




そう、あのクイーンの

アダムの

“We Are The Champions”が流れた

三陸花火大会の会場となった

高田松原運動公園のすぐ近くだ。



ここに

海を見渡せる展望台がある。


ここに来てから

陸前高田の海を見ることはなかった。


もちろん防潮堤ができて

視界から消えたということもあるが


この地にとって海とは

たくさんの尊い命を一瞬にして奪った

許しがたい存在だった。



車を停め

真っすぐにそこを目指した。








風が冷たい。


あの日も寒かった。

灰色の空から雪が舞っていた。



躊躇することなく

一気に階段を登りきり

視界に真っ青な海が現れたとたん


足がすくんだ。



すっきりと

晴れ渡った抜けるような青空を映し

きらきらと陽射しを受け

春の海は静かに輝いていた。



まるで

何ごともなかったかのように。




1557人の尊い命を奪い

202人の人たちは

今もなお家族の元に帰れず

4046棟の大切な我が家を押し流した。


一瞬にして2万3千人の人々の日常を

のみ込んだ。





何かの番組である人が語っていた。


“津波のあった、たった30分か40分の間に知り合いを一瞬にして300人も失うなんて経験は、そうできるもんじゃない。”


そこに居た、経験した人の口から

発せられる言葉は


ずっしりと重い。




穏やかな顔を見せる

陸前高田の海。


復興のさきにある

“なつかしい未来”に向けて

歩みを続ける人々。



人々が

この海を

またかつてのように

なつかしく慈しめる日が


一日も早く訪れますように。








10年…


長いですか?


短いですか?




この震災の年に生まれた子どもは

10歳になった


小学生だった子どもたちは

成人式を迎えた



時はどんなときも同じように流れる




しかし

その流れのどこにいるかは人それぞれ



進めると思えば前を向き

そこにいたいと思えば留まればいい



ここは区切りではなく

ひとつの通過点






午後2時46分

黙祷









※被害状況は

データで見る被災地の今2020-陸前高田市 

より拝借






コメント

  1. kaoriさんこんな濃い人生を歩んでおられたとは!
    ずっしりと堪えました。

    リブログさせてもらってよいでしょうか?

  2. kaori-glambert より:

    >cleartone558のブログさん

    お読みくださりありがとうございます。
    ひとりでも多くの方に被災地の今を伝えたいと思っています。
    リブログしていただけると嬉しいです。
    よろしくお願いします。

  3. pentree962 より:

    CAMOCY 今NHKで紹介されてましたね

    テレビで10年前の震災の様子が伝えられると、胸が詰まって涙が止まりません

    今日はずっと…です

  4. kaori-glambert より:

    >pentree962さん
    はじめまして。
    お読みくださりありがとうございます。

    COMOCY紹介されてたんですね。
    ここはただの発酵パークではなく、陸前高田のいろんな思いが形になった、これからの未来への希望が詰まった場所なんですよね。

    ベランダから防潮堤の向こうに少しだけ海が見えるんですが、そこから黙祷したら涙が止まりませんでした。

    風化させてはならないと強く誓いました。

  5. 水月 より:

    おはようございます♪ 
    濃密な人生切り開いて来られたのですね。
    涙ぐんでしまいました。

    被災地の友人は震災のすくあと出産し、その子は10才です。
    あっという間に感じます。

    カモシーは最近テレビで紹介されたのを見たことあります。
    名前がユニークでおぼえてました

  6. kaori-glambert より:

    >水月さん
    こんにちは!
    お読みくださりありがとうございます。

    ただ好き勝手に思うがままに生きてるだけで運良くたまたま結果こうなってるだけなんです。

    二度も東北に送り出してくれた両親や回りの人たちに助けられて今の自分がいることに感謝の気持ちを忘れずに、
    Iターン者である自分目線から見えた陸前高田をこれからも発信していけたらと思っています。

    カモシーのお料理やパンとっても美味しいです!
    たくさんの方にお越しいただきたいなあと思います。

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