11年目の朝─3.11

今日も輝けるひとつの海をのぞいてくださり
ありがとうございます。
 
 
 
月日がたつのは
なんでこんなに早いのだろう。
 
今年も…
この日がやってきた。
 
 
3月11日─
 
 
 
昨年
節目の10年目に綴った
私がここ陸前高田へ来た経緯と
“地元”への想い。
 
私にとっては
もうすっかり根を張ってしまった
第二の故郷になろうとしている。
 
 
2021年3月11日投稿のブログ
 
ずっと行けなかった場所─あれから10年
今日も輝けるひとつの海をのぞいてくださりありがとうございます。10年…長いですか?短いですか?2011年3月11日 午後2時46分18.1秒東日本大震災発生私は仙台にいた。そのわずか半年前に移住してきたばかりだった。家財道具をすべて積み込み...
 
 
この時期になると
各メディアで震災関連の企画や番組などを
目にするようになりますが
 
私から見た今の陸前高田の様子を
お話したいと思います。
 
 
 
 
 
町の復興は進んでいるかと言われたら
進んでないことはないが
進んでいるとも言えない。
(どっちやねん!)
 
 
私が現在お世話になっている市営住宅は
“区画整理のため”つい最近、住所が変わった。
 
“区画”の境目がわからないほど
雑草が生い茂っているが
既にこれで整理は終わってるってことかなあせる
 
 
職場までは徒歩5分。
その間、家は…2軒しかない。
区画整理…された空き地
盛り土されただけの荒れた大地が広がるだけ。
 
風通しが良すぎて
冬は踏ん張って歩かないと
北風に飛ばされそうになる。
(マジで仁王立ちのままズリズリと動くのだおーっ!)
 
職場は小さな商業施設だが
ゴールデンウィークやクリスマス、お正月などの
イベント時以外は
売上金とのにらめっこの日々ぼけーあせる
 
 
人口は着実に減少しており
盛岡や仙台へ流出している若者の数も
少なくはないだろう。
 
逆に、、、たま~にだが
私みたいな無鉄砲な変わり者が
県外から“移住したい”とおいでになる。
 
そんな怖いもの知らずの…
いえ、勇気ある方たちのお陰なのか、
辛うじて著しい人口減少は
食い止められているのかもしれない。
 
 
・令和4年2月28日現在の人口(陸前高田市)
18281人
 
・令和3年2月28日の人口 
18601人
 
(震災前2011年3月の人口 23221人)
 
 
 
 
 
町の中心部には
追悼施設 震災歴史博物館などが完成したが
 
 
それよりも大きな出来事が!!
(地元住民にとってはおーっ!)
 
 
 
中心市街地の一角に
ある施設の工事が始まった。
 
鉄筋コンクリートのしっかりした造りの
平屋建て。
 
 
ジャーン!キラキラ

 
 
 
皆が口々に“何が建つんだろう?”
と噂し始めた頃
 
あるお馴染みのマークが掲げられた。
誰もが手を叩いて万歳をするほど🙌
 
“待望の”施設だった。
 
 
 
下矢印掲げられたマークがこちらビックリマーク
 
 
 
 
なんと11年がたとうとしているのに
郵便局(本局)がまだ仮設のままだったのだ。
 
もう一度言いますよ
 
 
 
市の本局です、こ、れ、が!!
 
 
下矢印2022年3月現在の仮設竹駒郵便局

 
 
 
私が6年前に住んでいた仮設住宅からも近く
当時の職場からも近かったので
公私共にずいぶんとお世話になりました。
 
震災から11年…
やっとでお引っ越しできるんですね。
本当に本当に長い間お疲れ様でした。
 
でも何だか…
取り壊されるのも寂しい気がしますぐすん
 
 
 
そんな、復興も順調とは言えない進捗状況の
陸前高田市。
 
 
かさ上げした中心市街地の南端に
観光物産協会が入っている
“まちの縁側”という観光施設がある。
 
建物に沿って外側にスロープがあり登っていくと
全方位が見渡せる展望デッキがある。
 

 
 
 
海側を臨んだ景色。
が、高い防潮堤で海は見えない。
 
 
手前にある建物は
地元で包装資材販売業を営む
“米沢商会”さんの旧建物。
 
この建物の所有者である米沢祐一さんは
震災発生直後、屋上の煙突のてっぺんまでよじ登り
足元まで到達した津波を凌いで一命をとりとめた。
 
その煙突のてっぺんで恐怖とたたかいながらも
ご家族が避難したであろう建物が津波に呑まれていくのを
呆然と見られていたという。
 
命の恩人であるこの建物を残し
ご自身の体験を語り部として伝承していくため
様々なリスクを考慮した上で
震災遺構として残すことを決断された。
 
 
毎日新聞社の動画をお借りしました。
 
「命の恩人」であり「唯一の形見」だから 私は被災ビルを残した
※2021年3月10日公開

 
 
 
何よりも怖いのは
風化だ。
 
津波到達水位の看板を付けて建物を残しても
語り継ぐ人がいなければ…色褪せてしまう。
 
震災を知らない世代にも
きちんと受け継がれていくことを
願わずにはいられない。
 
 
 
 
行政は流された空間を埋めることだけに
急いてはいないだろうか。
 
立派な記念館や伝承館の建設は
確かに必要かもしれない。
外から訪れた人々にここで起きたことを
伝えていくためには。
 
しかしその建設の影に埋もれて
市民の生活に密着した郵便局が11年もの間
仮設のままだったことは
どう受け止めればいいのだろう。
 
 
取り残される生活者。
 
ひしひしと感じるのは
町の復興と人々の心の復興の温度差。
 
ハード面は少しずつでも進んでいるが
ここに暮らす人たちは…
少しでも何かに幸せを感じられる日々を
送られているのだろうか。
 
子どもたちに希望に満ちた未来を
残せているのだろうか。
 
 
 
明日から
12年目が始まる。
 
3月を前にすると
去年もそうだったような…
地震がちょこちょこと起こる。
 
 
 
仙台のマンションの一室で体験した
震度6強。
 
“地震”の概念がもはや崩れ去る
信じられないような巨大な揺さぶりを
今でも体がはっきりと覚えている。
 
“死ぬかもしれない”という
本気の恐怖と向き合ったとき
私が最後に思い出すのは母親の顔だということも
身をもって体験してわかったことだ。
 
揺れの恐怖と、ライフラインが閉ざされた3週間ほどの不自由な生活以外の被害はなかった私でさえ、今でも思い出すと心臓がバクバクするのに
 
ここ陸前高田の人たちが
あの日目にしたものは
どれだけ日々の日常を圧迫し
苦しめているのだろう。
 
 
 
ここは
岩手というところは
知らない方でも道で会うと
笑顔で挨拶を交わしてくれる。
 
そんな笑顔が
本物の笑顔であってほしい
そんな日が一日でも早く訪れてほしい。
 
 
 

 
 
 
 
 
あの日から11年を迎えたこの地は
いつもと変わらぬ朝を迎えた
 
 
被災地はいつまで被災地と
呼ばれるのだろう
 
ただ“陸前高田市”と呼ばれる日を
私は見届けたい
 
 
あの防潮堤の向こうに
再び松原が海岸を埋め尽くす頃には
そんな日が来るのだろうか
 
 
 
 
 
午後2時46分
黙祷
 
 
 


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